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  • 石橋みちひろ

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 沖縄復帰50年の節目を迎え、NTT労組新聞・西日本本部版では2月から特集を組み、掲載している。第2回となる今回は、アメリカ施政下の沖縄、祖国復帰要求に向けた動きと復帰を果たすまでの沖縄について紹介したい。


戦争終結後も続く闘い


土地の強制接収は「島ぐるみ闘争」へ発展

戦後から続いた米軍による民間地の強制接収は、1952年4月の『サンフランシスコ講和条約』の発効後も続いた。

 1953年4月には、米民政府()が「土地収用令」を公布。武装した米兵が次々と民間地を強制接収し、住民はテント生活を余儀なくされた。そして、1954年3月、米民政府は、接収した土地に対して、わずかな地料を一括払いする方針を発表したが、住民は反発。同年4月に立法院(※)として、①土地の買い上げ・地料の一括払い反対②適正な補償と地料の毎年支払い③適正な損害賠償④新規の土地接収反対――からなる『土地問題四原則』を全会一致で確認した。

 しかし、米民政府は1956年6月に『土地問題四原則』を否定する『プライス勧告』を発表。これに反発した住民は、十数万人参加による『四原則貫徹県民大会』、さらには、県内50余市町村でも住民大会を開くなど、『島ぐるみ闘争』へと発展していった。

(※)沖縄統治のための米国政府の出先機関

(※)米民政府が設置した琉球政府の立法機関


軍用接収地 宜野湾伊佐浜「金は一年土地は万年」の幟

〈写真①〉


銃弾こそ飛ばねども「危険」「不条理」あふれた社会


住民の怒りは頂点に「コザ暴動」勃発

 戦後の沖縄では、米軍基地と住宅地が隣り合わせているがゆえの米兵による殺害・強姦・略奪等の凶悪犯罪、米軍機の墜落事故等が相次いで発生した。

 1955年9月、石川市(現・うるま市)に住む6歳の幼児が強姦・殺害される事件が発生した。同年12月には犯人である米兵に死刑判決が下されるも、後に減刑。さらに米国へ送還後、うやむやにされた。

 1959年6月、嘉手納基地を離陸したジェット戦闘機が石川市に墜落。パイロットは途中で脱出したが、機体は民家を押しつぶしながら炎上、宮森小学校に激突した。この事故により、児童11人を含む17人が死亡(重軽傷者210人)した。この事故でも、激しい抗議行動と補償要求が行なわれたが、要求のわずか一割程度の支払いだった。

 1968年11月、ベトナム戦争へ爆撃に向かうB52戦略爆撃機が嘉手納基地からの離陸に失敗し墜落。搭載していた爆弾に引火して大爆発・炎上し、爆風などによって近隣住民16人が負傷した。

 1969年7月、致死性の神経ガスなど、約1万3000トンもの毒ガス兵器が沖縄の米軍基地に持ち込まれていることが発覚した。立法院や各市町村議会は、「毒ガス撤去要求」を決議するとともに、各地で住民による抗議行動が展開された。1971年に毒ガスは移送されたが、その費用20万ドルは日本側が負担することとなった。

 当時の沖縄では、毎年1000件超の凶悪犯罪や、交通事故等が米兵により引き起こされているが、米軍法会議で加害者は無罪となったり、米国へ送還後に未解決となるケースも多く、住民の怒りは頂点に達していた。

 こうした中、1970年12月にコザ市で発生した米兵による交通事故の後処理を発端に、5000人以上ともいわれる住民が、米軍関係者の車両等を焼き払う事件(いわゆる「コザ暴動」)が起こった。


【琉球新報社から】宮森小ジェット機墜落事件.jpg

宮森小学校に墜落炎上したジェット機の残骸(1959年6月30日)

〈写真②〉


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焼き打ちにあった米軍車両

〈写真③〉


復帰要求の高まりと動き、そして、復帰へ

 とどまることのない土地の強制接収と基地建設、米軍・米兵による凶悪犯罪や事件・事故、そして、加害者である米兵への非民主的な扱い等に対する住民の怒りと不満は、「コザ暴動」に象徴されるように大きなうねりとなっていった。

 1960年4月、官公労・教職員会・労働組合など、幅広い団体が参加して『沖縄県祖国復帰協議会』(以下、復帰協)が結成されると、『屈辱の日』である4月28日には、毎年のように「祖国復帰要求県民大会」が開かれるなど、復帰要求運動はさらに高まりを見せた。1965年8月の佐藤栄作首相の来沖、1969年6月には沖縄返還に向けた日米交渉が正式に始まり、1969年11月に日米首脳会談で「1972年の沖縄返還」が合意されるに至った。

 しかし、合意内容は、「日米安保条約を沖縄に完全適用し、基地を残したまま日本へ返還」するもので、住民の念願である「即時・無条件・全面返還」「基地のない平和な沖縄」とは程遠いものとなっていた。

 その後も住民による活発な抗議・反対運動が展開されたが、その願いは国会へ届くことはなく、1971年6月に『沖縄返還協定』が調印され、1972年5月15日、沖縄は27年ぶりに祖国・日本へ復帰した。


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祖国復帰県民総決起大会(1964年4月28日)

〈写真④〉

【写真提供】
〈写真①〉=沖縄県公文書館
〈写真②〉=琉球新報社
〈写真③〉=玉城哲夫氏所蔵(『大琉球写真帖』より)
                  那覇市歴史博物館

〈写真④〉=那覇市歴史博物館