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  • 石橋みちひろ

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 2022年5月15日、沖縄が本土に復帰(以下、「復帰」)して50年の節目を迎えた。戦中・戦後・米軍統治時代、そして、復帰から現在に至るまでの沖縄がたどった事実や課題をあらためて見つめ直したい。


「あの戦争」ですべてを失った沖縄から目をそらさないで

■すべてを奪った沖縄戦

太平洋戦争終盤の1945年4月1日、約1300隻もの艦船と総勢55万人の兵力で沖縄本島の海を黒く覆いつくした米軍は、「鉄の暴風」とも言われた約20万トンの弾丸や砲弾を徹底的に撃ち込み、住民の尊い命や家屋・建物・土地など、すべてを奪い去った

 その後、上陸した米軍に圧倒された日本軍は首里城地下の司令部を捨て本島南部に撤退。ガマと呼ばれる地下壕に避難している住民を巻き込んだゲリラ戦に持ち込んだことで、多くの住民が犠牲となった。スパイ容疑をかけられた人、米軍に投降しようとする人、食料供出を拒んだ人、泣きやまない幼児など、日本軍に殺害された住民も少なくないと言われている。さらに、中学生や女学生、青年学校の生徒たちまでも「鉄血勤皇隊・学徒看護隊」として動員され、その多くが戦場で犠牲となった。

 沖縄本島の南端・摩文仁の丘まで追い詰められていた日本軍第32軍は6月23日、牛島満司令官らが自決し、日本軍としての組織的抵抗が終わった。

 この沖縄戦では県民のおおよそ四分の一にあたる住民約9万4000人、県出身の軍人・軍属約2万8000人を含む、約20万人が犠牲となった。


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1945年3月26日、慶良間上陸。艦砲射撃の雨

〈写真①〉


米軍による土地の強制接収

 戦後、米軍は沖縄の占領と同時に旧日本軍の主要な基地をそのまま米軍基地へと整備していった

 1949年5月には米軍が沖縄の長期保有を決定。以降、これまで米軍が接収してこなかった農地や住宅等の民間私有地も基地建設の対象地となった。

 1950年代には米軍による土地の強制接収が本格化。住民に銃剣を突き付け、火炎放射器で家屋を焼き払うなどして土地を接収、ブルドーザーで土地をならした。この頃の強制接収により建設された米軍基地は、現有基地面積の約68%にもなり、今も住民には返されていない。


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北中城村の米軍施設(バックナー基地)

〈写真②〉


米軍占領下の生活

 戦後、住民のほとんどが収容所での生活となった。米軍からは、最小限の食料・衣料・テント・医薬品等が支給されたが、マラリアや栄養失調などで多くの犠牲者が出た。

 「鉄の暴風」により焦土となった沖縄では、労働の対価は食料品があてがわれるなど、通貨制度は存在しなかったが、1948年7月、米軍が発行するB型軍票(いわゆるB円)が法定通貨となる。その後、沖縄では1958年9月から復帰までは、B円に代わってドルが法定通貨として指定された。

 また、復帰前に沖縄から本土へ渡航するにはアメリカ側の統治責任者である高等弁務官が発給するパスポートが必要であった。ただ、パスポートとはいえ、実際は「日本渡航証明書」と記載されており、申請から発給までにかなりの時間と経済的負担を強いられたほか、米軍は発給権限を利用して、米国・米軍にとって不都合と判断する人物への発給を拒否した。


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流通したB型軍票(B円)

〈写真③〉

【写真提供】
〈写真①〉〈写真③〉=那覇市歴史博物館
〈写真②〉=キーストンスタジオ蔵・那覇市歴史博物館

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